音楽を続けていく理由

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音楽を続けていく理由・・・それぞれ理由がある人もない人も様々。ただし、競合意識だけでやっているのなら、続けていかないほうがいい。

どちらが/誰が/誰よりも、上手いか/下手か・・・これほど音楽をつまらなくする表現要素は、これ以外に存在しない。

このポイントを基準にしていると、共演者や聴き手との間に良いVibe~ヴァイブ~が生まれるどころか、自分自身も周りの人間も共々疲れてしまい、音楽にまったく必要のない悪い空気が生まれ、音楽にならない。

まず最初に、音楽の本質的な価値観の部分から確認したい。

“ドラマー”という肩書きになると、ドラムを叩くというそのアクション、要するに身体的技術に関してどちらが上手いか下手かという競合意識が非常に芽生えやすい。

アラン氏のブログでも述べた通り、もちろん身体的な基礎技術は、あるに越したことはないが、最終的に音楽を通して自分が何を述べたいか・伝えたいか・表現したいか・・・これらの意義しか存在しない。

競合意識が心のどこかに少しでも芽生えることが原因で、自分と他の人間を比べる行為が生まれ、自己表現をするための脳の回路が止まってしまうことを避けたい。音楽に取り組んでいく上での一番有効な価値観は、上手いか下手かではなく、気持ち良いか気持ち良くないか、そして、何かを感じるかどうかだ。

僕自身の場合は小学校低学年の頃、元々人を楽しませる事に強い興味があり、一番最初に音楽に興味を持ち出した当初は歌手に憧れた。その後、色々な楽器に触れ合う機会があったのちに、最終的にドラム・セットと出会い、8ビートを叩いた瞬間に自然と感動し、ドラムの世界を冒険したいと感じた。

当然、ドラムは好きだ。ただ、元々歌う事が好きだったり、ドラム以外の楽器にも触れて音楽そのものの楽しさを味わったので、どちらかというと音楽そのものが大好きであった。

あくまで、音楽に関わっていく中で使うアイテムとして、偶然ドラム・セットとの相性が良かったからドラムを選んだという流れだった。一時期、ドラマー的な身体的技術にしか興味がない時期もあったが、最終的には、それだけだと音楽を表現することに限界があると感じた。そして、ドラムマニアではなく、音楽マニアでいるほうが視野は倍に広がると強く感じた。

基本的に、若い頃や楽器を始めたばかりの頃は、ロックスターになりたい、ただ有名になりたい、金持ちになりたい、大きな会場でライブをやりたい、テレビに出たい・・・・などと言った目標の人もいるかもしれない。

僕自身は正直こういう構想を一度も持ったことがない。なおかつ、音楽に対して一生深く取り組んでいくという意味の本質は、まったくこういう事ではない。

基本的に自分の愛する音楽ならば、隅々まで学んでいきたい。外見や表向きメディア的部分のみ意識し、目標として行動する人間に限ってビジネス要素ばかりに気を取られ過ぎて、~学び~のモチベーションが消滅する

一番残念なことは、このような内容の目標だと、達成した時点で人生の頂点に到達したような気持ちになり、それ以上の進化を望まなくなることが多いところだ。

表向きなところばかり意識すると、最初に述べた競合意識の要素しか芽生えない上で音楽に取り組んでいく形になってしまう。心から音楽を愛するのであれば、自分自身がどういう身分であろうと、一生かけて学んで成長していきたいと思うのが自然だ。

音楽という物体の素敵なところは、音楽をやっていることで生まれる出会い、音楽をやっている人間にしか味わえない素敵な経験、そして何よりも、聴き手に何だかのEmotional State~情緒状態~を共有することができ、何だかの感情的影響を与えられることを、喜びとして感じられることである。

そして更に、音楽に関わっていることによって得られる素晴らしい人生経験を、自分自身の~人間としての成長~にも応用していけることである。音楽をやってることが要因で、今まで気付けなかった自分の何かに気づき、自分の性格や人間性なども良い方向に変われば、これほど素晴らしい事はない。

このような本質的なポイントを感じることが出来たのは、アメリカの教会で礼拝者の人たちからかけられた言葉が自身の中ではかなり大きい。

アメリカの教会では、1日2~3時間ほどのWorship(礼拝)での、クリスチャン・ソングなどを演奏するために、外部からプロのミュージシャンを雇うというのが、ほぼ当たり前になっている。プレイヤーが実際に信仰者なのかどうかは一切問われない。僕自身も信仰者ではない。実際にほぼこれだけで生計を立ててるプレイヤーもいるくらいだ。

教会での演奏の仕事を始めてから数年経った頃、礼拝に来ていた白人男性からかけられた、「Thank you for playing drums for us」という言葉から、Play for the People~人に向けて/人のために演奏する~という行為が、ある程度自分のものになりかけ始めたと確信出来た。

彼らからすれば、音楽は賛美に欠かせないもの。実際に聖書の中で、歌う事は祈る事、祈る事は歌う事と捉えられている。そんな賛美の中で必要不可欠な音楽を通じて、礼拝者の人たちに気持ち良く祈りに専念にしてもらいたいという気持ちで表現・演奏した自分の感情が、彼らに届いた瞬間だったと強く感じる。

 

~どんな気持ちで演奏しているか~
これは1,2を争うほど重要なことである。

音楽を演奏することに対して、ありがとうと感謝されるような言葉は、これ以前までの海外生活の中では言われたことはなかった。なぜなら・・・若い頃は、自分のためにしか演奏したことがなかったからだ。

過去の自分の演奏スタンスの全ては、①自分をカッコ良く魅せるため、②自分の地位を大きく魅せるため、③他より身体技術的に上手く魅せるためだった。

①自分をカッコ良く魅せること-は、視覚的表現要素で必要なことなので間違いではない。ただし、②と③はアンサンブルでまったく必要のない無駄な意識だ。教会で演奏するまでは、上記のような事しか考えていなかった。

そして何よりも、周りが何をやってるかなどまったく集中も意識もしていなかった・・・

相手の声を聴き、お互い聴き合う、調和する、響きあうということは、まさに音楽家の基本的思考の部分にも当てはまり、音楽的意義を見出すことが出来る。イエスは、「聞く耳のあるものは聞くがよい」と言ったとしてあるが、聞こえることと聴くことは異なる。

相手の声に集中し、心を相手に傾けなければ聴くことはできない。聴く能力を持つということは、相手の存在を認識し、相手の話を受け入れる力~受容力~を育てることであり、アンサンブルでの自己中心的演奏を阻止することにもつながる。

教会での演奏経験から、音楽を通して聴く態度と聴く大切さを学んだ。そして同時に、演奏中に周りがどういう状態か・・・聴くこと+感じて察する事も学んだ。

聴くという事に関して少し余談になるが、尊敬するノーキー・エドワーズ氏との足跡でもご紹介したポール・マッカトニーのバックドラマーを務める、Abe Laboriel Jr.氏の実の父親であり、ベーシストのAbe Laboriel Sr.氏も、

「音楽で一番大事な事は、Listening~聴く事~だ。この場合の聴くという事は主に、共に音を奏でている周りのメンバーに対してだ。とにかく周りのメンバーがどういう演奏してるか、全神経を耳に集中させてみる。すると、自分がその場で何をするべきかすぐに分かる。一番愛すべきことは聴く事だ」と、常に力強く述べている。

最後に・・・

どんな現場でも、目の前や同じ空間に自分の演奏を耳にしている人間が1人でもいる時点で、演奏者と聴き手の間でInterplay~相互作用~が生まれる。

このブログの前頭でもお話しした通り、聴き手に何だかの影響を与え、自分自身もその空間から何だかのインスピレーションを受けたい。

たとえこれがもし、聴き手にとって単なるBGMにしかならないような現場だとしても、このような姿勢で挑むことがすごく大切だと常に感じる。

常にこの姿勢を意識してやっていれば、マスターベーションの公開発表・・・要するに自分の事しか考えず、自分だけカッコよければいいという、音楽的にまったく良い効果を与えない勝手な演奏スタイルを阻止することが出来る。

常に聴き手や周りの人間とコミュニケーションを取りたいと強く思うことが、音楽で自分を表現するという事と密接な関係にある。~あくまで自己表現は、その空間で周りの何だかの要素と絡み合った上で、様々な影響力が生まれて成り立つ~

自分自身もこのように、聴き手や共演者、そして関わるアーティスト・音楽家などと更に感情的にも影響し合うことができ、様々な種類の未知のインスピレーションを得られる事を楽しみにして続けていきたい。

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