憧れ

Pocket

自分とは違う人種・・・例えば黒人に憧れる。黒人のグルーヴ感を、フィールを、リズム感を得たい・・・などなど。憧れが強いがゆえに、こういったところを自分自身のゴールに設定する人が多いが、結論的には無理である。当然、人種・国によって環境・文化・価値観が違うからだ。

これを考える前に、自分はどんな人間なのか、どんなドラマー・ミュージシャンなのか。自分にしか出せない個性は何か、音楽を通して何を述べたいのか、徹底的に探ることが先となる。

その後、彼らがどういう気持ちで、どういうバックグラウンドでどういうインスピレーションを受け、そういう風に演奏をしているのか・・・詳細を理解した上で、憧れから得た何かを、自分の個性と絡ませた上で表現をすることがゴールとなる。

自分の憧れの人を追うことはおかしくないが、追いすぎると単なる追っかけファンになるだけである。あくまでミュージックビジネスなので、自分自身の何だかのプレゼンが必要不可欠になる。

この辺りの度合いを超過してしまうと、真似てることをただ披露するだけとなり、演奏がものすごくつまらなくなってしまう。よく現場では、~誰々のようなテイストを少し入れて欲しい~などと求められることはあるが、~誰々のクローン人間~などとは求められない。

1つの例として少し深く辿ると、そもそも、南北戦争を経た後に自由を手に入れ、奴隷解放によって仕事を求められた黒人たちがそこから生活をしていくために、ダンスホールや酒場などのBGMとして歌ったり、楽器演奏をして生活し始めたわけである。

家族を持つ者が1日ほんのわずかな収入を得るために、必死に演奏していた気持ちははかり知れないほどの力強さであることは、言うまでもなく強く感じる。しかし、これとまったく同じ感情や気持ちは理解は出来ない。

なぜなら、自分自身が実際に経験したことではないからだ。このように、実際にその人が味わったり経験した環境から生まれる特別なフィールなど、当然その瞬間を生きた人間以外に表現することは出来ない。

もちろん音楽理論的には、音符の歌い方や裏拍の取り方など、それぞれの国の文化や環境などから影響された、やり方の違いはそれぞれの国や人種に存在する(打楽器だけに限らず)。

あくまで、歴史的学習や現地での文化を体感することによって、自分が憧れるそれ/その人に近いものを表現することは出来るというだけである。

その先、憧れの人のようになること/似ることを目指すよりも、上記で述べた通り、憧れの人間のバックグラウンドやヒストリー、そして思考に関して学んで消化した上で、自分自身が現在置かれている状況・生活環境・人生の中から良いもの・悪いもの全て含めた様々なインスピレーションを得てから、自分という要素を放出するほうが、~オリジナル~に辿り着きやすい。

誰か/何かに影響を受けている時点で、勝手にその人に似ていくもの。あえてマネしようとしなくても勝手に似ていくものだ。

単なる憧れで終わらないように、憧れという要素を自分という名のフィルターを通し、ある程度自分の色に浄化させて、様々な影響を受けて変化していく自分自身を表現していく=放出していくという意識を常にしていきたい。

勝手な先入観によって引き起こされる憧れ

○○の国の人だから・先輩/後輩だから・○○の人だから・・・というような勝手な先入観から生まれる要素が要因で、憧れが芽生えることももちろんある。

特に日本は、見た目から入り込んでいくことが特徴の国民性だ。そのため、その人の考え方や生き方など、詳細を大して知らないまま、そして知ろうとしないまま追っていくことほど残念でもったいないことはない。   

同時に、社会的地位やネーム・バリューなどの◯◯バリューを基準に、ビジネス要素しか考えずに人を見ることを止めたほうが、自身の音楽世界観も倍に広がる。

なぜならどこの国に行っても、プロと名乗る人間より、帰り道で偶然見かけたストリートミュージシャンの子供の方が、素敵なフィールを持っているという現象も良く起こるからである。履歴書の内容などの、その人を保護する◯◯バリューという名の壁をぶち壊し、その人そのものの感性を感じて、もっと人間的・本質的な部分を理解していきたい。

その人の保護壁=◯◯バリューを基準に人を見ず、人間的・本質的部分をもっと知ってから憧れを持つほうが、音楽への情熱も入り込み感も恐ろしいほど深くなる。もちろんその逆、もし必然的に理由なく憧れたのなら、のちに深く知っていきたい。

せっかく得た“憧れ”という素晴らしいインスピレーションの成分は、モノマネという名のフィルターには通さないようにして、自分自身の個性の花を咲かすための肥料として吸収したい。

Pocket