日本において音楽が日常生活から遠く感じる要因

1. ライブ文化の閉鎖性と経済的ハードル

  • 完全チケット制が主流:多くのライブハウスでは、ゲストリスト枠が一切なく、知人でも無料で入れないことが多い。

  • 価格設定が高め:知らないバンドを見るために4,000〜5,000円払うのは心理的ハードルが高く、偶然の出会いや「試し聴き」が起こりにくい。

  • フリーエントリーの文化が希薄:欧米のように「1ドリンクで入場可」「早い時間は無料」などの柔軟な運営が少ない。

少なくとも数枠のゲストリストを設けることで、音楽との偶然の接触機会が増え、文化的な裾野が広がる可能性があります。

 

2. 公共空間での音楽体験の乏しさ

  • ストリートライブやバスキングの規制:許可制が厳しく、自由に演奏できる場所が少ない。

  • 公園や駅前での音楽禁止:騒音とみなされることが多く、音楽が「迷惑行為」とされがち。

  • 音楽フェス以外の場が限られる:日常的な空間で音楽に触れる機会が少なく、特別なイベントに限定されがち。

 

3. 教育やメディアの影響

  • 音楽教育が「鑑賞型」中心:自分で演奏したり、即興で楽しむ文化が育ちにくい。

  • メディアの商業偏重:テレビやラジオでは大手事務所のアーティストばかりが流れ、インディーや実験的な音楽が世間一般に届きにくい。

 

4. 都市構造と時間感覚

  • 通勤・通学が忙しく余裕がない:音楽を聴く時間が「移動中のBGM」に限定されがち。

  • 住宅事情で音楽が制限される:集合住宅では楽器演奏が難しく、音楽が「家で楽しむもの」になりにくい。

 
これらの事例は、日本において音楽を含む芸術全般が、日常生活と密接な関係に無いことを象徴している。
 

どうすれば音楽がもっと身近になるか

  • ライブハウスがゲストリスト枠を設けることで、偶然の出会いや口コミが広がる。

  • 公共空間での演奏許可の柔軟化や、地域イベントでの音楽導入。

  • 学校教育での即興・創作型音楽体験の導入。

  • メディアが地域アーティストやライブ情報を紹介する枠を持つ。

 

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音楽の本質的部分とは

音楽の本質的部分 = 感情の共有と感情の相互作用 

*聴き手に何らかの感情的影響を与え、自身も聴き手からのテンションやムードなどから何らかの感情的影響を受けること。

*音楽の定義の1つで、“音による時間の表現”と言われてるように、時間=(打楽器で言う)リズム・タイム・グルーヴなどを指すわけだ。そうなると打楽器の場合は、どのような気持ちで/どのような感じで/どのような雰囲気で、そのコンスタントなリズムを奏でるのかということが全ての論点となる。

 

この時点で、人間に様々な影響を与えるためには、手足のすごい技以前に感情的要素が必要不可欠であることは一目瞭然である。

これらの事柄が常に頭に入っていれば、必ず自然に音楽的なドラムを演奏することが出来る。

もしもドラムセットという楽器を“音楽の一部”として見れているならば、当然のことながら演奏を聞けば、自然と体が動いてくる。

演奏者・聴き手どちらにも言えることだが、ドラムセットという単体のソロ楽器だと構えて捉えるがゆえに、音楽そのものとの関連性がないひとつの道具として見てしまい、単なる派手な見せ技を追求することだけが目標となりがちだ。

あくまでドラムセットという楽器は、アンサンブルの中での共演者や聴き手との間での相互作用によって、そしてドラマーが何らかの感情を注入しながら演奏することによって、曲の中で輝く

例えば、このような事をまったく考えていないドラマーがバンドの中に入って曲を演奏すると、周りのバンドメンバーが例え生身の人間であっても、周りを聞こう・感じようとする意識がないため、CDに合わせて叩いてるようにしか聞こえなく、音楽性に欠ける。

ドラムセットやその他打楽器に関しては特に、自身の感情が表に出やすい。なぜなら、誰でも叩けばすぐに音を出せる楽器だからだ。ということはイコール、それだけダイレクトに自分の感情を注入しやすい楽器ということだ。

怒りながら叩けば、とげとげしい音色が出る。優しい気持ちで丁寧に叩けば、マイルドで耳に刺激が少ない音色が出る。まずこの楽器にこういった特色がある時点で、そのドラマーから湧き出る質感と感性、そしてノリの部分が自然に、聴く人や観る人に様々な影響を及ぼしやすい楽器ということになる。

もしも楽器という物を単なる技術の塊としか見れていない場合、あくまで技の発表にしかならない。その人間が楽器を通して発する独特の空気感や感情の放出、表現などを“感じる”ということが、全ての芸術分野において必要不可欠となる本質部分だ。

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ドラマー or ミュージシャン

~あなたはドラマーになりたいのか、それともミュージシャンになりたいのか~

Do you want to be a DRUMMER? 
Or 
Do you want to be a MUSICIAN?

 

アメリカに住み始め、様々な師匠たちに巡り合う事が出来て、様々なことを教わったわけだが、ほとんどの師匠から共通して言われたのがこの言葉だ。

ドラムビジネスではなく、ミュージックビジネスの観点からドラムセットという楽器を捉えることが、最重要だと常に周りから教わった。

最初に注意事項として、これはどちらが良いか悪いかという論点ではなく、ただ単に意識の方法である。

海外の人間がよく言うドラマーの解釈は、「ドラマーはドラマーという1人の技術者という感覚であり、~叩くということ~に関する身体的な技術の部分のみを追究する者」。

一方、ミュージシャンという表現では、よく“音楽的なドラマー(Musical Drummer)”と表現されるが、ドラムセットという楽器を使って、音楽・楽曲を輝かせることができるドラマーということになる。

この曲ではどういうドラムを叩けば、曲がかっこよくなるか、ヴォーカルがかっこよく聴こえるか。実際に叩くグルーヴやフィルイン(おかず)のパターンなどは、あくまでその曲に合うから叩くわけであって、自分のドラム的都合で叩くわけではない。

このようなアプローチでは、自分1人の力ではなく、バンドメンバーやオーディエンスを含む、その場で音楽に関わる人間との相互作用によって、1曲を成り立たせるということになる。

そのため、装飾的で派手なフレーズばかり叩いて、自分が一番目立ってやろうというマインドになったらおしまいだ。その曲に合う=正しいアプローチを心がけたい。そして、その曲にどんぴしゃりで合う内容を叩けた時には、楽曲・ドラムと共に輝く。

自分自身も楽曲第一のアプローチになってから、師匠たちから「ミュージシャン」という表現をしてもらえるようになった経緯がある。

 

ある意味自然な事かもしれないが、特にドラムをやり始めた頃は、とにかく速くてかっこいいフレーズや派手な技をやることばかり目指しがちになる。ただ、音楽に関わり続けていくにつれ、様々なジャンルの音楽や人種と共に音楽を演奏するようになれば、「ドラマーかミュージシャンか」という意識の違いは、重要な基本思考だと感じるに違いない。

例えば、誰がスティックの持ち方を気にするだろうか・・・ 気にするのは周りのドラマーだけで、他の楽器の人間はそんなこと一切気にしない。

このようにドラムセットという一種の楽器である以上、当然奏法に関する批評は存在する。ただこれはあくまでドラマーの世界の中だけの話であって、もっと広い視野で音楽という世界から見ると、もの凄く小さな議論だ。本来個々のミュージシャンが意識するべきことは、ドラム批評ではなく音楽批評のほうだ。

結局、ビジネスで関わる人間の数では、ドラマーより他の楽器の人間の方が多い。ドラム的批評ばかり気にしていると視野が狭まり、音楽的批評を意識する余裕がなくなる。そのため、共に音楽を創り上げていく上で、バンドメンバーがドラマーに求めていることに気付きにくくなる。 

 

音楽の現場で、~ドラマーとミュージシャン~ この2つの解釈では何が違うのか・・・

まずは、ドラマーとミュージシャンの解釈の違いを他の分野で例えてみる。

例えば、とある国の言語に興味があって勉強する。分かりやすく英語に例えてみる。TOEICやTOEFLで満点を取れるほど勉強していれば、ある程度の日常英語からビジネス英語まで読み書きが出来るようになるであろう。ただしそのアカデミックな内容以外には、同じ英語圏の国の中でも、その地域独自の細かいイントネーション、アクセント、抑揚、そしてスラングなどが存在する。

英語で言うならば、同じアメリカ合衆国でも大きく分けて、ハワイ州、西海岸、東海岸、アメリカ大陸中央部などでは、見事に発音が異なる。ハワイ州でずっと通じていたニュアンスのまま、ニューヨークで現地の人間と最初に話すと、うまく通じない言葉がいくつも存在する。更にそれをロサンゼルスで応用すると、また別に通じない言葉が存在したりする。

過去に勉強した英語の教科書通りの文章だけでは通用しないことを痛感させられた。

もう1つの例として、車の運転ではどうだろうか。

例えば、単に運転が上手いのと安全な運転が出来るのとでは意味が違ってくる。いくらアクセルやブレーキの使い方がうまくて、車線をはみ出さずに走れて、車庫入れや縦列駐車が上手く出来ても、いざ公道で100%安全に走行出来るかというと、それは分からない。公道で遭遇する可能性のある様々な事故や危機を予想したり、回避しようとする意識と技術の方が、実際の運転では役立つ。何よりも車の運転という事柄でのメインポイント~安全~という要素に寄り添えているかが重要になってくる。

言語に関しては、音楽のジャンルやスタイルの基礎を学ぶ時と同じで、本当にその言語の詳細まで深く学びたいと感じた時には、その言語を使っている国そのものに関して知りたいと強く感じるはずだ。その国の歴史、特徴、文化、風習、人間性、国民性、長所、短所などから、その言葉のニュアンスに隠されたヒントが分かる。

どちらの例に関しても共通するのは、実際の現場で役立つのかどうかである。

 

まったく同じことが音楽にも当てはまる。身体的技術が完璧なドラマーと、楽曲をかっこよく聴かせるドラマーとでは大きく異なる。プロの仕事の現場や、例え初心者の人がバンドをやる時の練習時であっても、その場での正しい対応やレスポンスに繋がるのは、紛れもなく後者~楽曲をかっこよく聴かせるドラマー~となる。

だからと言って、身体的技術が不要ということではない。特に手足のスピードに関しては、卓越したような要素は音楽的なドラムを叩くためにはほぼ必要ないが、もちろん基本は必要である。

これら2つの要素両方を非常にバランス良く持ち合わせているのが、世界を代表するドラマー、Vinnie Colaiuta(ヴィニー・カリウタ)氏などだ。また、身体的技術がものすごく卓越しているわけではないが、楽曲をピカイチに輝かせて聴かせるドラマーとしては、Steve Jordan(スティーブ・ジョーダン)氏などが挙げられる。まったくスタイルの違うドラマーだが、両ドラマーに共通しているポイントは、楽曲の事を最優先して考えるところだ。

決してどちらが良いか・悪いかではなく、まず楽曲が必要とする最低限必要な音楽的ドラミングの要素を叩くこと、そして楽曲を邪魔しないことを基本に、プラスアルファの部分で自分的な事をやるのが通常だ。このプラスアルファの部分を個性と呼ぶ。

ただよくある問題は、このプラスアルファの部分をいかに輝かせるかというポイントをゴールにしがちになることだ。音楽的なドラムを叩くことを無視し、先に自分の演奏スタイルややりたいことだけを強調することは、必ず避けたい。

自分自身がドラマーのため、今回は「ドラマー/ミュージシャン」という内容になったが、この話は全ての楽器に当てはまる。ギター、ベース、ピアノ、キーボード、サックス、トランペット、トロンボーン、当然のことながらヴォーカルにも。

あくまで、ミュージシャンという意識を持った上で、それぞれの楽器を学んでいく方が、ミュージックビジネスの中でもそれぞれの楽器のプロフェッショナルとしての表現が、無限大に広がりやすくなる。別にプロを目指してない人に対してもまったく同じことで、バンドなどで他の人間と合わせる時などにこのような意識を持つことで、必ず尊重されるに違いない。

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憧れ

自分とは違う人種・・・例えば黒人に憧れる。黒人のグルーヴ感を、フィールを、リズム感を得たい・・・などなど。憧れが強ければ強いほど、こういったところを自分自身のゴールに設定する人が多いかもしれないが、真似をするところをゴールにしない方があとあと役立つ。

その憧れの人がどういう気持ちで、どういうバックグラウンドで、どういうインスピレーションを受け、そういう風に演奏をしているのか・・・詳細な深いところを理解した上で、憧れから得た何かを、自分の個性や自分が音楽を通して述べたいことと、絡ませた上で放出・表現をすることがゴールとなる。

自分の憧れの人を追うことはおかしくないが、追いすぎると単なる追っかけファンになるだけである。あくまでミュージックビジネスなので、自分自身の何だかのプレゼンが必要不可欠になる。

この辺りの度合いを超過してしまうと、真似てることをただ披露するだけとなり、演奏がものすごくつまらなくなってしまう。よく現場では、~誰々のようなテイストを少し入れて欲しい~などと求められることはあるが、~誰々のクローン人間~などとは求められない。

1つの例として少し深く辿ると、そもそも、南北戦争を経た後に自由を手に入れ、奴隷解放によって仕事を求められた黒人たちがそこから生活をしていくために、ダンスホールや酒場などのBGMとして歌ったり、楽器演奏をして生活し始めたわけである。

家族を持つ者が1日ほんのわずかな収入を得るために、必死に演奏していた気持ちははかり知れないほどの力強さであることは、言うまでもなく強く感じる。しかし、これとまったく同じ感情や気持ちは理解は出来ない。

なぜなら、自分自身が実際に経験したことではないからだ。このように、実際にその人が味わったり経験した環境から生まれる特別なフィールなど、当然その瞬間を生きた人間以外に表現することは出来ない。

もちろん音楽理論的には、音符の歌い方や裏拍の取り方など、それぞれの国の文化や環境などから影響された、やり方の違いはそれぞれの国や人種に存在する(打楽器だけに限らず)。

あくまで、歴史的学習や現地での文化を体感することによって、自分が憧れるそれ/その人に近いものを表現することは出来るというだけである。

その先、憧れの人のようになること/似ることを目指すよりも、上記で述べた通り、憧れの人間のバックグラウンドやヒストリー、そして思考に関して学んで消化した上で、自分自身が現在置かれている状況・生活環境・人生の中から良いもの・悪いもの全て含めた様々なインスピレーションを得てから、自分という要素を放出するほうが、~オリジナル~に辿り着きやすい。

誰か/何かに影響を受けている時点で、勝手にその人に似ていくもの。あえてマネしようとしなくても勝手に似ていくものだ。

単なる憧れで終わらないように、憧れという要素を自分という名のフィルターを通し、ある程度自分の色に浄化させて、様々な影響を受けて変化していく自分自身を表現していく=放出していくという意識を常にしていきたい。

勝手な先入観によって引き起こされる憧れ

○○の国の人だから・先輩/後輩だから・○○の人だから・・・というような勝手な先入観から生まれる要素が要因で、憧れが芽生えることももちろんある。

特に日本は、見た目から入り込んでいくことが特徴の国民性だ。そのため、その人の考え方や生き方など、詳細を大して知らないまま、そして知ろうとしないまま追っていくことほど残念でもったいないことはない。   

同時に、社会的地位やネーム・バリューなどの◯◯バリューを基準に、ビジネス要素しか考えずに人を見ることを止めたほうが、自身の音楽世界観も倍に広がる。

なぜならどこの国に行っても、プロと名乗る人間より、帰り道で偶然見かけたストリートミュージシャンの子供の方が、素敵なフィールを持っているという現象も良く起こるからである。履歴書の内容などの、その人を保護する◯◯バリューという名の壁をぶち壊し、その人そのものの感性を感じて、もっと人間的・本質的な部分を理解していきたい。

その人の保護壁=◯◯バリューを基準に人を見ず、人間的・本質的部分をもっと知ってから憧れを持つほうが、音楽への情熱も入り込み感も恐ろしいほど深くなる。もちろんその逆、もし必然的に理由なく憧れたのなら、のちに深く知っていきたい。

せっかく得た“憧れ”という素晴らしいインスピレーションの成分は、モノマネという名のフィルターには通さないようにして、自分自身の個性の花を咲かすための肥料として吸収したい。

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