音楽の本質的部分 = 感情の共有と感情の相互作用
*聴き手に何らかの感情的影響を与え、自身も聴き手からのテンションやムードなどから何らかの感情的影響を受けること。
*音楽の定義の1つで、“音による時間の表現”と言われてるように、時間=(打楽器で言う)リズム・タイム・グルーヴなどを指すわけだ。そうなると打楽器の場合は、どのような気持ちで/どのような感じで/どのような雰囲気で、そのコンスタントなリズムを奏でるのかということが全ての論点となる。
この時点で、人間に様々な影響を与えるためには、手足のすごい技以前に感情的要素が必要不可欠であることは一目瞭然である。
これらの事柄が常に頭に入っていれば、必ず自然に音楽的なドラムを演奏することが出来る。
もしもドラムセットという楽器を“音楽の一部”として見れているならば、当然のことながら演奏を聞けば、自然と体が動いてくる。
演奏者・聴き手どちらにも言えることだが、ドラムセットという単体のソロ楽器だと構えて捉えるがゆえに、音楽そのものとの関連性がないひとつの道具として見てしまい、単なる派手な見せ技を追求することだけが目標となりがちだ。
あくまでドラムセットという楽器は、アンサンブルの中での共演者や聴き手との間での相互作用によって、そしてドラマーが何らかの感情を注入しながら演奏することによって、曲の中で輝く。
例えば、このような事をまったく考えていないドラマーがバンドの中に入って曲を演奏すると、周りのバンドメンバーが例え生身の人間であっても、周りを聞こう・感じようとする意識がないため、CDに合わせて叩いてるようにしか聞こえなく、音楽性に欠ける。
ドラムセットやその他打楽器に関しては特に、自身の感情が表に出やすい。なぜなら、誰でも叩けばすぐに音を出せる楽器だからだ。ということはイコール、それだけダイレクトに自分の感情を注入しやすい楽器ということだ。
怒りながら叩けば、とげとげしい音色が出る。優しい気持ちで丁寧に叩けば、マイルドで耳に刺激が少ない音色が出る。まずこの楽器にこういった特色がある時点で、そのドラマーから湧き出る質感と感性、そしてノリの部分が自然に、聴く人や観る人に様々な影響を及ぼしやすい楽器ということになる。
もしも楽器という物を単なる技術の塊としか見れていない場合、あくまで技の発表にしかならない。その人間が楽器を通して発する独特の空気感や感情の放出、表現などを“感じる”ということが、全ての芸術分野において必要不可欠となる本質部分だ。